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私は、森、野中両氏が大嫌いです

2000913

宇佐美 保

 

森氏、野中氏等のテレビに写る顔を拝見していますと、なんとこの方々は恐ろしい顔をしているのだろうと思いました。

(但し、森氏は最近では、子供たちを抱き上げて作り笑いをされてます。今までの森氏がそのような態度を取られていたら微笑ましいのですが、人気取りの為のその態度は森氏の心の貧困さをより際立たせています。)

 

森氏の神の発言とは別に、仏教の言葉に「無財の七施」が説かれています。

この七つの施とは、

第一には「眼施」、つまり目による施しです。人を憎むことなく、常に好ましい眼差しをもって他人を見るということです。    

第二は「和顔悦色施」、すなわち和顔愛護ということです。人々に対して嫌な顔つきをせずに、にこやかな和らいだ顔を他人に示すことです。人々に対して顰蹙したりなどしないということなのです。

第三は「言辭施」、言葉による施しです。これは、荒々しい言葉を出さず、他人に対して優しい言葉をかけるということで、仏教のほうでは「愛語」という言い方もあります。他人に対して愛のこもった言葉を述べるということです。

第四は「身施」、身による施しです。これは、他人に対して身をもって尊敬の態度を示すことです。

第五は「心施」、心の施しです。つまり、善い心をもって他人と和らぎ、善いことをしようと努めることです。たとえ最上のことをしたとしても、心が和らいで善でなかったならば本物ではないと言うのですね。善い心であって、和善であるということです。云々

(中村元著:青土社発行の『人生を考える』参照)

 

 どうも、森氏、野中氏を初め自民党の幹部の方々は、創価学会の公明党と徒党を組みながら、仏様のこのお心とは全く遠い所に居られる方々と見受けられます。

1.)森、野中両氏のあの怖い目つき顔付きは、「眼施」「和顔悦色施」とは遥かに遠いと思います

2.)森氏などの記者たちへの応対の言葉態度は、「言辭施」「身施」等とは、ほど遠いでしょう。(橋本元首相も時折記者達に怖い顔と声で答弁をされていました。)

3.)森氏のいわゆる「エイズ発言」や、「大阪痰壷発言」「沖縄発言」等は、森氏が「心施」とは全く無縁だからなのでしょう。

 

 野中氏は、“森発言でいつまでも天皇に関して揉めている事は、天皇陛下に失礼であり申し訳ない。”旨の発言をされていました。

この野中氏の“天皇陛下に失礼であり申し訳ない”と云う言葉で物事が処理されていったら、徐々に徐々に戦前の如くに「天皇中心の神の国」へと日本は変わっていってしまうのではないでしょうか?

 

 なにしろ野中氏は、この手法でクーデターを成し遂げたのですから。

小渕前首相が倒れた際に、入院先の病院発表を“小渕氏のご家族の心労をおもんぱかって云々”とか云って、結局森氏を首相に仕上げたのですから、この手法を用いれば、例えばの話、将来A首相を入院と偽って何処か(勿論病院でも良いのですが)に監禁等して、マスコミ等には“A首相の個人的な病状は、御家族の御心労を考慮して発表出来ない。”として、新たにB氏を新しい首相に担ぎ出すことも可能なのですから。

私は、野中氏(森氏も)が「無財の七施」から余りにも掛け離れた方なのでとても恐ろしく感じます。

 

 それに、野中氏は小沢氏や鳩山氏などの言動が小渕氏を病気に追いやったかの如くを発言されていましたが、私には、小渕氏は小沢氏との約束を守ろうとしても、「小沢憎しの野中氏」が反対し、小渕氏が板挟みとなって苦しんで病気になられたようにも思えます。

 

 そして、自民党の幹部連は“小渕氏のご家族の心労をおもんぱかって云々”を金科玉条として、全てを押し切っていましたが、私は特に森氏の発言を異様に感じました。

森氏は小渕氏の後任として総裁(首相)を引き受ける際、“天の声と思って引き受けます”との旨を発言されました

誠に可笑しくはありませんか?

「天」が森氏に“首相を引き受けろ”と声を発したのなら、その「天の発言」の前提の「小渕氏のダウン」は、「天の御意志」だったのでしょうか?

それとも、「天」は小渕氏には「天の意」を用いず、森氏のみに「天の意」を示されたと言うのでしょうか?

本当に可笑しくありませんか?

“小渕氏のご家族の心労をおもんぱかって云々”を金科玉条とするなら、このような発言は最も慎まなくてはいけないのでしょうか?

 

 このような発言を平気でする森氏に「心」があるとは決して思えません。

このような人が首相でよいのでしょうか?

歴代の首相の中で、と言うより、人を導く立場の人の中で、森氏ほど他人に対する配慮に欠け、自己中心的な方は居ないと思います。

 

 数々の過去の彼の失言はさて置きまして、626日の自民党党本部で行った記者会見での森氏の答弁でも、私は、彼が嫌いになるのです。

今回の衆議院選挙の結果、自民党や野党の議席の減った最大理由を記者に質問されて、森氏は、(朝日新聞によりますと)次のように答えられております。

“自民党の現有は267議席だったが、そのうち公明党との協力が14、保守党との協力が1226議席減る。もう一つ、定数削減され、その影響を受ける。仮に10議席としても、その分で合計すると36議席だ。その数字で見ると、233と言う数字は、屁理屈だというかもしれないが、そんなに大きく敗れたとお叱りを受けるような数字ではない。”


 この森氏の答弁に対して、何故マスコミは反発しないのでしょうか?

テレビ朝日の「やじうま新聞」で、漫画家のやく氏は、“このような数字を並べられると何故か納得してしまう。”とさえ発言していました。

 

 おかしくありませんか、自民、公明、保守が選挙協力をしたのですから、その協力の結果(立候補者の調整などで)自民が減った分はあっても、公明、保守の協力の結果、自民が増えた分は無いのですか?

だとすると、森氏は公明、保守の協力による自民の増加分はゼロと認識されている事になるのではないでしょうか?

 この事は、“自民は、公明、保守に対して充分な選挙協力したのに、公明、保守の選挙運動が不十分(不人気)の為、自民の議席を増やす事が出来なかった。”と、公明、保守を非難している事になります。

 更に、“公明、保守は、自民の強力な応援があったにもかかわらず自分達のていたらくの為に、公明(4231)、保守(187)共に議席数を減じているのだ。”と森氏は解釈していると思われます。

 

 ですから、森氏の答弁の心を統括しますと、“自分達(自民)は、良かったけど公明、保守が悪かっただけだ!”と解釈されます。(公明、保守に失礼ではないのでしょうか?)

 

 おかしくありませんか?

たとえ森氏の腹の中での、“選挙で議席数を減らしたのは公明、保守が悪かったのだ。”を是認しましても、そのような、公明、保守と選挙協力するのを決定したのは、森氏達ではないのですか?

 森氏達の「自民、公明、保守の3党協力」の決定の結果、自民、公明、保守の3党の全議席数を331から271へと減じているのですから、この責任を感じるべきです。

しかし、例によっての森氏の「自己中心的」性格からは、このような責任を感じる事無く、自己弁護だけを開陳するのです。

 

 この自己中心的で他人を心を思いやる事の出来ない一番良い例は、中田選手との会食時の対話でしょう。

 

森氏のサッカーの中田選手とのローマでの会食時の会話をテレビで見て、森氏の心の貧弱さに唖然としました。

なのに、私は最近、スポーツクラブで20歳台の男性二人(別々に)と、この会話について話した際の、二人の男性の反応にビックリしました。

彼等は、森氏の心の貧困を感じていなかったのです。

(更に、驚いた事は、彼等の両親にあたる年配の方も同じような反応でした。

そして、彼等からの情報で、更に驚かされたのは、森氏の会食の後に、中田選手が記者達に“森氏へもう少し穏やかに接すれば良かったのに!”と非難されていたとの事でした。

 

そこで、私は彼等に、森氏と中田選手の会話を再現しました。

森氏 “韓国での試合に於いては、日本チームは一度も韓国チームに勝ったことが無い事を知ってますか?”

中田選手“何の試合ですか?”

森氏“サッカーですよ。”

中田選手“勝ってますよ!?”

 

ここまで、再現した後、二人に“この後、森氏はなんと言ったか覚えている?”と尋ねますと、二人とも“なんと言われましたっけ?”との返事が返ってきました。

で彼等に説明しました。

森氏は、「そうかな、川渕君がそう言っていたよ。」と言ったんだよ、おかしくない?

 

でも、これに対しての二人の反応は、“サッカーの事は、専門の中田に任せておけば良かったんですよね。”でした。

そこで、彼等に、“森氏は、どう中田選手に答えるべきだったと思う。”と尋ねたら、“「後で、川渕氏に確認する。」とでも言えば良かったのでは?”位でした。

 

 ですから、私は彼等に「森氏は、先ず“誠に釈迦に説法の如くに、サッカーの名手の中田さんへ、門外漢の私がとんだ間違いを申し上げて失礼を致しました。”と素直に謝るべきです。」と言い、その理由を次のように説明しました

 

1)サッカーのチェアマンの川渕氏が、こんな事で間違った情報を森氏に提供するはずは無い!”

2)万一、川渕氏が、間違った情報を森氏に提供していたとしても、そんな事実を、テレビが回っている前で、発言したら川渕氏はサッカーのチェアマンとしての面目丸潰れとなってしまう。

 

取り敢えず、森氏発言時点では、1.2.)どちらであるかは不明ですが、たとえ、真実は、2.)の場合であったとしても、川渕氏の立場をおもんぱかって、一先ず、森氏は自分の間違いとして謝罪すべきです。

そして、森氏は、不審だったら、機会を改めて、森氏は川渕氏に再度確認すればよいのです。

(こういう思いやりは、馴れ合い、もたれ合いでは無いのです。

このように、他人をおもんぱかる態度こそは、道徳教育の基本ではないのですか!?)

そして、森氏のように、自分の間違いを直ぐに他人に転嫁しようとする態度は、とても国をリードして行く人とは思えない。

又、他人のミスを庇ってやろうとする心の無い人が、道徳教育の必要性を説くのは全く噴飯もの

 

このように、自分の失敗を他人に転嫁する人が一国のリーダーとなってしまっては、その国はとんでもない破滅の道を進むのではないでしょうか?

森氏は、どんな失政を行おうと、自らの責任をとらずに、全て他人のせいにしてしまうのですから。

 

 以上の私の見解を聞いた後、若者も年配者も納得して、森氏に憤慨していました。 

 

 森氏は、小学校でのパソコン教育を視察しながら、パソコンの授業を受けている小学生達に、とんでもない発言をしていました。

これからは、パソコンが出来ない人は、言葉は悪いけど、日陰者と言われるのだよ。”と。

一国の首相たる人物が、どのような未来が待ち構えているかわからない小学生に、何故このような発言をされるのでしょうか?

1.      )小学生には、パソコンを手段にして社会に出る人もいましょうが、パソコンを使わない分野(職人や、芸術家や、スポーツ選手や、……)で活躍する事になる人もいるでしょう。

2.      )なのに、森氏発言では、パソコンを使う仕事が最上で、他の仕事は日陰の仕事と差別している事になるでしょう。

3.      )たとえ、パソコンを駆使できた方が有利な仕事、より金儲けが出来る仕事に携わっても、その時、彼等がパソコンを使えなくてハンデを負おうとも、仕事で成功しなくても、彼等には別の幸せが存在するかもしれません。

4.      )それに、皆がパソコンを使って仕事をしている時代に、その同じ仕事を、別の手段を用いて解決してゆく事で、新たな創造が生まれさえするでしょう。

 

ですから、森氏発言は、「これからは、パソコンの時代、その時代に遅れないように、パソコンを用いて仕事に成功しなさい。さもないと日陰者と呼ばれるのですよ。」という誠に想像力のかけた発言なのです。

誠に、森氏は首相なのでしょうか?少なくも、これからの教育を云々する資格は欠けています。

 

なのに、この貧相な心の森氏が教育問題を云々するのは噴飯物です

 

それに、森氏は、何かというと、森氏のお父さんの昔話をして、親から子への教育の必要性、重要性を説いておられますが、それでは、森氏がお父さんの自慢話をしているようにしか受け取れません。

森氏の偉大なお父さんの教育によって、森氏自身がどのように立派な方に御成長されたのかが重要なのです。

ところが以上に述べてきた如くに、私には森氏が立派に生長されたとは思えないのです。

 

 

更に、このとんでもない森氏を支えている自民党の幹事長である野中氏は、先程の衆議院選挙の際、「公共投資」の件で次のような発言をされていました。

 

 “農村への下水処理施設建設の為に公共投資をする事の何処がいけないのですか?

都会の孫が、夏休みなどに農村のおじいちゃんの家を尋ねてきた際、おじいちゃんは孫に都会同様の水洗便所を使わせたいではないですか?


と語っていました。

野中氏は、このような比喩を常に(涙声混じりに)用いて、マスコミや国民を騙します。

そして不思議な事に、マスコミも国民もその言葉に簡単に丸め込まれてしまうのです。

 

 私はとても不思議に思います。

孫がおじいちゃんの家の水洗便所を喜ぶのは、夏のほんの数日です

でも、その時以外は、その孫は、大半を都会の排気ガスと騒音の中で(外国からはウサギ小屋とまで言われる家で)過ごさなくてはならないのです。

(ですから、心優しいおじいさんは、自分達の水洗便所を我慢しても、孫達の住む都会に自分達同様な綺麗な空気を与えてやりたいと思うのではないでしょうか?)

更に、孫の父親は、日々ラッシュの通勤電車でもまれ、疲れ果て、帰宅後は孫の相手も出来ないのです。

 そして、疲れた身体に鞭打って休日、車で何処かに遊びに連れて行ってやろうとしても、今度は車のラッシュです。

 

 こんな都会の日々を過ごしている孫が、夏休みの数日の水洗便所の恩恵を預かる為に、彼等が成人後、多額の国の借金を返さなくてはならないのです

 

国のお金が無尽蔵にあるなら、それも結構もっともな事です。

しかし莫大な借金を抱えた国では、その国の責任者は、そのお金の使い道の優先順位を考えるのが当然でしょう

当然、投資したお金が将来の実りを約束してくれる事は重要な判断材料でしょうし、幾ら公共設備等の地域格差解消といっても、その財源は都市部で稼ぎ出しているのです。

この機会に、都市部の公共設備(インフラ)に対して抜本的な改革を行い、将来へ備えるべきではないのでしょうか?

(なにしろ、都市計画さえまともに実施されていず、狭い道路で辟易しているのですから。)

 

 更に、少なくとも与党の政治家をテレビで見る限りは、党利党略(特に、自分の議員生命確保)の為にしか動いてないように感じます。

たとえ「地方の雇用創出の為」との題目で公共投資を行うにしても、従来通りにその地方の建築業界を動員しての集票に好都合とばかりに「所謂箱物」ばかり作っていたら、国も地方も赤字の山を築くだけです。

少なくとも、次代の地方産業の礎を築く為の公共事業であるべきです。

(今回の衆議院選挙で都市部に於いて自民党は大敗した為、“都市部の選挙制度を変更しよう。”などの見解迄が出てくるに到っては呆れかえってしまいます。)

 

 先日のNHKテレビでは、90歳でも矍鑠とされているP・ドラッガー氏は、現在の日本の問題点の一つに次の点を挙げておられました。

都市部に80%の人口が集中しているのに、農村部の人口が依然として70%と認識しているかの如き政治家達


野中氏達は、そのドラッガー氏の問題とした政治家の最たる例だと思います。

 

 今の与党の政治家からは、最近NHKテレビで放映されていた第二次大戦の末期の日本の中枢部のようです。

全く、日本の崩壊が明らかなのに、そして、ソ連の参戦が明らかなのに、ソ連に終戦の仲介を頼み、ソ連が無視していても、「そのソ連の行動を全て日本の為、スターリンは偉大な人物」と自分の都合の良い方向にばかりにしか考えようとしなかった日本中枢部のようです。

当時の日本の中枢部が自らの責任を賭けて、当面の自体に真正面から立ち向かい行動していたら、少なくともソ連の日本への侵略は阻止できたのでは?

 

 このままでは、日本は外国資本の侵略などを受け、没落の道を歩んで行くのではないでしょうか?

(でも、若しかしたら、現在の驕り昂ぶった日本人には、その方が良いのかもしれませんが!?)

 

 

 更に付け加えるなら、今回の、森田健作氏の秘書の選挙違反や、民主党山本譲司氏の秘書の給与詐取の摘発等は、選挙時にあんなにも野中氏に反旗を翻した森田氏や、都市部での躍進が著しかった民社党への、蛇のような野中氏の執念を感じるのは私だけでは無いと存じます。

 

 もう一つ付け加えますなら、テレビ朝日の『サンデー・プロジェクト』において田原総一朗氏は、数ヶ月(一年位?)前から、自民党への切り込みがとても甘くなっています。

例えば、9月3日の同番組での野中氏へのインタビューはまるで、野中氏の宣伝広報番組のようでした。

可笑しくは有りませんか、でも、数ヶ月(一年位?)前に、ある週刊誌(?)で、“『サンデー・プロジェクト』の制作プロダクションが破産した。”との記事を見ました。

その時私は、そのプロダクションの破産も野中氏が絡んでいるのではないかと思いました。

この私の邪推(?)によりますと、最近の『サンデー・プロジェクト』での田原氏の変節振りが納得できるのです。

 しかし、幾ら狼が羊の振りをしてもボロを出すものです。

野中氏は、加藤絋一氏に対して、“与党3党が結束して、やっとここまで景気を回復して来た苦労を、自らはせずに、執行部を批判するのは誠に批評家的で、この点は次の首相には相応しくない。”旨を田原氏に回答していました。

 どうですか?可笑しくは有りませんか?

やっとここまで景気を回復して来た苦労」というのは、与党3党の執行部だけの苦労でしょうか?

リストラで首を切られたり、なけなしの預金の低金利で泣かされた庶民の涙は、如何お思いなのでしょうか?

 日頃は、「国民」「国民の為」と泣き声を出して訴える野中氏は、このような点で直ぐに「国民」を何処かに置き忘れて、常々野中氏の頭の中には、自分たち与党3党の事だけしか無い事が露呈されてしまうのです。


(追記:2004年1月)
議員を引退された野中氏は、戦争の悲惨さを子供達に伝えて残して行く決意をされたとのことですが、このような野中氏は私大好きです。



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