美術収集品と食料を交換し難民を救った首藤定氏
2011年5月29日
宇佐美 保
2011年4月1日のNHKのBS103放送の「知られざる在外秘宝……」との番組で、終戦時に、大連の日本人避難民の食料を確保する為に、自らの大事な美術コレクションをなげうった首藤定氏のお話が紹介されていましたので、その件を少し紹介させて頂きます。
大連の商工会議所の会頭も務めた首藤定(1890〜1959)は、大分の農家の生まれで、1911年21歳の時中国にわたり、30代半ば為替事業で成功して、その頃より熱心に美術品の収集を始める。 (例えば、喜多川歌麿の肉筆画「芥川図」、菱田春草の「秋(落葉薄氷)」、福田平八郎の「萩 仔兎」) 首藤はこれらのコレクションを、百貨店の一角、或いは、茶室を借りて公開していたが、いずれは、大連に自らのコレクションの美術館を建て、日本だけでなく中国の美術品も併せて陳列する思いであった。 首藤の回顧録「在満三十六年の夢」には、次のように記されている。 「建国」とは文化の併行がなければ国都としての落ち着きも、国民の平和的な気持ちも醸成されるものではない。 速やかに、国立美術館や博物館の施設をなすべきである。 終戦直前1945年8月9日に、日ソ中立条約を一方的に破棄して、ソ連が対日戦に参戦 敗戦後、大連はソ連の支配下に置かれた日本人の生活は過酷でした。 財産を略奪される人は後を絶たず、事態をさらに深刻化したのは大連周辺の地域から大勢の日本人逃れて来た為、避難民は栄養失調になり、毎日、5人、10人は死んでゆき、5歳以下の生存者はほとんど見ることは出来なかった。 女性はソ連兵の暴行を恐れました。 人々の飢えを目の当たりにした首藤は、ソ連司令部のあった大連のホテルを訪ね、ソ連司令官ドミトリー・ゴズロフ中将に “自分の持つ美術品約千点を寄贈するから、その代償として多量の粟(アワ)、高粱(コーリャン)を頂きたい”と申しでました。 ソ連司令部は当惑しました。 しかし、首藤が歌麿の肉筆画などの選りすぐりを見せると態度が変わりました。 司令部の一人は、こう語ったと言います。 “かつて、アメリカで駐在中に浮世絵の肉筆画に感銘を受けた。この作品はそれに劣らない。他の作品も名品に違いない” そして、首藤の申し出は受け入れられることになったのです。 終戦から、7ヶ月後の1946年3月首藤のコレクションはソ連司令部へと運ばれました。 そして現在、モスクワのロシア国立美術館の特別な収蔵庫に美術館が最も大事にしている日本画コレクション(首藤定収集美術品)があります。 ロシア東洋美術館では、首藤のコレクションはモスクワの人々の目を楽しませています。 そして、美術館のナタリア・カネスカヤさんは次のように話して居られます。 “最も人気のあるのは、福田平八郎の「あやめ」で、その画面の余白が、あやめの清楚な印象を引き出しています。 この絵のお陰で、モスクワの人々はあやめを好きになりました。 それまで、日本で愛されていた「あやめ」は、この絵の力で、国も民族も違う私達ロシア人に愛される花になったのです。“ 日本から中国へそしてロシアへ、戦争の時代をうつしながら流転を続けた日本が波静かに日本の美を伝えています。 |
(補足)
このように、モスクワの人々に愛されている「あやめ」を描いた画家福田平八郎は、首藤定氏の友人であったとの事です。
更に、首藤氏は、“首藤はこれはという作品は画家本人から手に入れ所蔵品を増やして行きました”と紹介されていました。
首藤氏のように美術品を購入する事で、作家の方々への直接的な金銭援助となるでしょう。
今の世の中では、大企業の会長、社長との名前が付く方々は、私の想像を超える天文学的額の報酬を得ているようですが、それらのお金を自分の懐にため込むのではなく、(投機目的ではなく)自らが感銘を受けた多くの芸術家へと廻すように心掛けてほしいものです。