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操り人形と化した菅直人氏(1

2011215

宇佐美 保

 

 数日前、和佐隆弘氏(元日経新聞論説委員)から、“ロシア大統領の国後島訪問を「許し難い暴挙」と非難した菅直人氏を直ちに首相の座から引きずり降ろさなくては、とんでもないことになる、ぜひ協力してほしい”との電話を頂きました。

 

 和佐氏の御心配の通りに、次の記述を目にしました。

 

 【モスクワ共同:213()】ロシアのナルイシキン大統領府長官は12日、モスクワのクレムリン(大統領府)でロシア訪問中の前原誠司外相と会談し、北方領土問題で日本側が強硬な姿勢を取り続ければ、領土交渉継続の意味がなくなると警告した。インタファクス通信が伝えた。メドベージェフ大統領の昨年11月の国後島訪問を「許し難い暴挙」と非難した菅直人首相の発言を念頭に、最近のロシア閣僚の現地視察に抗議を続ける日本政府の対応を強く批判した発言。

 

 和佐氏は、この菅直人首相の「許し難い暴挙」発言を、「“無視する”との鈴木貫太郎首相(当時)のポツダム宣言に対する発言に類する」と非難され、『ポツダム会談 日本の運命を決めた17日間(チャールズ・ミー著 大前正臣訳)』の一部をコピーして送って下さいました。
(尚、本日2月18日、この書籍を購入しましたので、後半の部分では、この書籍より追加して引用させて頂きました)

 

  この問題の鈴木発言に対応する箇所をそのコピーから次に抜粋させて頂きます。

(但し、その前文がありますが、先ずは問題発言の部分をご覧ください)

 

 

鈴木首相は728日午後3時、内閣記者団と会見した。

 

問 27日の三国共同宣言に対する首相の所信如何。

答 私はあの声明は回路会議の焼直しであると考えている。政府としては何等重大な価値あるは考えない。ただ黙殺するだけである。我々は戦争完遂にあくまでも邁進するのみである

 

問題は「黙殺」と言う言葉の意味になったアメリカ通信委員会の海外放送諜報局はこれを「無視する」(ignore)と訳した鈴木首相が後に子息に語ったところによると、彼はこれを英語の「ノーコメント」の意味を持たせたかったという。『ニューヨーク・タイムズ』は「日本は、連合国の最後通通告書を公式に拒否」の見出しをつけたが、アメリカの指導者が選んだのはこの解釈だった。……


 

 私には、単なる「黙殺」と言う言葉だけの問題でないように思います。

黙殺」であろうが鈴木氏が本来意図したという「ノーコメント」であろうと、鈴木氏は、その言葉の後に“我々は戦争完遂にあくまでも邁進するのみである”と語っているのですから、「黙殺」であろうと、「ノーコメント」であろうと、三国共同宣言を「無視する」(ignore)と同じと思えるのです。

 

 このいずれの言葉であっても、やはり相手方に失礼な言葉である事は間違いありません。

そして、順序が逆になりましたが次の引用文に有りますような 「“最大の慎重さ”で宣言に反応する必要があるという」東郷外相の提言こそが、人としての言葉と存じます

(では、その引用文です)

 

 

東京時間で二十七日の午前六時、日本の短波受信機はポツダム宣言をキャッチした。政府は急いで会議を開き、年前は最高戦争指導会議・構成員会議(首相、外相、陸相、海相、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長によって構成)、午後は閣議に移して、一日中、宣言の受け止め方について議論した。

 東郷外相は宣言は明らかに「無条件降伏」を押しっけるものではないと感じ、天皇にも最大の慎重さで扱いたい、と奏上した。

 

一方、豊田副武軍令部総長は、政府はただちに宣言はバカげており、検討に値しないという声明を発表すべきだと主張した。豊田総督が宣言でいう“無謀な勝手な軍国主義者”であることはいうまでもない。

しかし宣言を前向きに受け取りたがっている派にとって、2つの点で説得力を持っていた。

1は、スターリンが宣言の署名に加わっていないことであった。したがってソ連はまだ中立国であり、日本のために調停してくれるかもしれない

2は、宣言中「無条件降伏」という言葉は1回しか出てこず、それも「全日本軍隊の無条件降伏」といっていることである。

鈴木貫太郎首相は、“最大の慎重さ”で宣言に反応する必要があるという東郷外相の意見に賛成した。日本政府にとって問題は、いかにして、だれに対して回答するか、であった。宣言は外交路線、例えば中立国を通じて送られてきたものでなかった。新聞とラジオ放送で知らされたものだった。

 

 

先ず、日本政府、勿論軍部のガタガタぶり、ご都合主義(独り善がり主義)は、ここではっきり読み取れます。

それは、第1の「ソ連はまだ中立国であり、日本のために調停してくれるかもしれない」と言う全くに日本に都合のよい希望的観測を抱く点です。

なにしろ、「ソ連はまだ中立国であり……」であるなら、この共同宣言は、「中立国を通じて送られてきたものでなかった」ではなくて「ソ連を通じて送られてきた」となって然るべきです。

 

では、又、引用文の続きです。

 

内閣のタカ派とハト派は一時的な妥協に達した。さしあたり、宣言を一部削除し、編集して、新聞に発表する。政府の意見は何も加えない。つまり宣言を批判もしなければ、拒否もしない。

28日の新聞には政府の方針どうり、宣言は「復員兵士は平和な生業につく」と言う箇所は削られ小さく掲載された。しかし「朝日新聞」は「政府は黙殺」の見出しで、「帝国政府としては米、英、重慶(中国)3国の共同声明に関しては何等重大な価値あるものに非ずとしてこれを黙殺すると共に、断固戦争完遂に邁進するとの決意を固めている」と報じた

東郷は軍部が新聞に手をまわし、「宣言には意思表示しない」という政府の方針を歪曲させたのではないかと激怒した。米機が日本壊滅を警告するビラを日本上空からまいていうころ、彼は軍部指導者を非難した。

軍部は軍部で、明確に、断固として宣言を拒否せよと鈴木首相に迫った。しかしここでまた一つの妥協が生まれ、ソ連の反応を調べるまでの間、宣言を拒否しないが、重視しないことになった。鈴木首相は728日午後3時、内閣記者団と会見した。

 

問 27日の三国共同宣言に対する首相の所信如何。

答 私はあの声明は回路会議の焼直しであると考えている。政府としては何等重大な価値あるは考えない。ただ黙殺するだけである。我々は戦争完遂にあくまでも邁進するのみである。

 

問題は[黙殺]と言う言葉の意味になった。アメリカ通信委員会の海外放送諜報局はこれを「無視する」(ignore)と訳した。鈴木首相が後に子息に語ったところによると、彼はこれを英語の「ノーコメント」の意味を持てせたかったという。『ニューヨーク・タイムズ』は「日本は、連合国の最後通通告書を公式に拒否」の見出しをつけたが、アメリカの指導者が選んだのはこの解釈だった。……

……

 

 

 ここでは、やはり(自社の新聞を売らんかなの)新聞社の姿勢も問題です。

行け行けドンドンと国民を煽っている方が、敗戦濃厚をアナウンスするよりずっと新聞は羽が生えたように売れて行くでしょうから!

 

 そして、「しかしここでまた一つの妥協が生まれ、ソ連の反応を調べるまでの間、宣言を拒否しないが、重視しないことになった」が全く、自分たちの都合の良い方へ良い方へとの自分勝手な思いこみです。

 

 何しろ、この“『ポツダム会談 日本の運命を決めた17日間』の──「まえがき」に代えて──(昭和504月)”に於いて、次の記述を目にするのですから「テヘラン会談である。このときスターリンは早くも、ドイツ降伏3ヶ月後、ソ連は日本に宣戦布告してもよい、とほのめかす。

 

 ではその部分に移りましょう。

 

 

 昨年末、ニューヨークで本著の著者、チャールズ・ミー氏と電話で話し合う機会を持った。日本を発つとき、友人の在日米人ジャーナリストから「いい男だから、会ってごらん」と紹介されたからである。会うつもりだったが、急に帰国しなければならなくなり、電話で話すほかなかった。

 ミー氏はちょうど本書を書き終えたばかりだった。私も、アメリカが終戦当時、天皇制をどうしようとしていたかの問題に興味を持っていたので話題は必然的にアメリカの“日本処分”政策に移った。すると突然、彼はいいにくそうに漏らした。

「あなたたち日本人には残酷な話だが、トルーマンは日本との戦争を早く終わらせたくなかったのだと思うよ

「なぜ」

原子爆弾を落とすまではね

「……」

 

 

 ここで、「歴史の若し」(いや!若しではなくて、そうすべきだったのでしょう!)になりますが、ポツダム宣言を直ちに受諾して居れば、原爆投下も、ソ連参戦もなかったかもしれません。

 

 

 戦争中、日本は見かけだおしの大東亜会議しかひらけなかったが、連合国側はひっきりなしに首脳会談を開き、対独、対日共同戦略を練った。うち、日本にとって重要な会談は最後のポツダム会談をいれ、四つである。

 

 第一は、日本が太平洋で次第に米軍に押されてきた昭和1811月下旬、ルーズベルト、チャーチル、蒋介石がカイロで開いた会談である。このとき3首脳は「日本を無条件降伏させる」というカイロ宣言を発表した。……

 カイロから米英首脳だけは直ちにイランのテヘランに移り、ここでスターリンと膝をまじえて対独戦略を討議した。テヘラン会談である。このときスターリンは早くも、ドイツ降伏3ヶ月後、ソ連は日本に宣戦布告してもよい、とほのめかす。3カ月とは、ソ連軍をヨーロッパ戦線から転進させ、極東に配備するために必要な期間である。

 日本は何としてでもソ連との戦争を避けたかった。それで、ソ連と結んでいた中立条約にすがりついていた。スターリンがこんなに早くから日本と戦う方針であることには気づいかない

 

 

 一体日本はどうだったのでしょうね!?

スターリンがこんなに早くから日本と戦う方針であることには気づいかない。」そして、尚、ポツダム宣言に対して「ソ連の反応を調べるまでの間、宣言を拒否しないが、重視しないことになった

 

 

 次は、昭和202月のヤルタ会談である。日本ではB29が大都市を次々に焼いていた。米軍は硫黄島を取り、沖縄上陸の段取りとなる。大本営は本土決戦の作戦要綱を決めるが、一部の重臣は和平に向かってあわただしく動き始めた。

……

 米英ソ3首脳はここでソ連クリミヤ半島のヤルタに集まり、戦後のヨーロッパの処理について次の方針を決めた。

 ドイツは米英仏ソ4カ国で分割占領する。……

  ヤルタで、ルーズベルトとスターリンはまた、日本にかかわりのある重大な秘密協定を結んだ。スターリンがいよいよ対日戦争参加を確約したのである。時期はドイツ降伏から3ヶ月後

 ソ連はその代償として、極東で莫大な“戦利品”を取ることとする。日本から南樺太、千島を頂戴する。大連港を自由港とし、ソ連が優先権を持つ。旅順口をソ連の海軍基地にする。南満州鉄道、東支鉄道をソ中合併とし、共同運営する。ソ連の勢力下の外蒙(モンゴル人民共和国)をそのままにし、中国の主権を認めない。……これをルーズベルトとスターリンは中国と全く相談なしで決めた。……

 ましてやツンボ桟敷の日本は、ソ連参戦の密約に気づかない。スターリンは早速、ヤルタ会談直後から、ソ連軍を極東に転身させはじめた。日本もそれを探知した。それでも日ソ中立条約に望みをかけていた。4月になると、不吉にもソ連は中立条約を破棄するといってきた。が、後1年は有効である。日本としてはソ連が戦争を仕掛けるというような“いやな予測”はしたくない

 5月、ドイツはついに降伏した。(和佐氏注:“58日”3ヶ月後は88日)

世界で連合国と戦っているのは日本だけになった。残っているといっても、海軍力はほとんど失い、6月には米軍に沖縄を完全に占領された。東京は半分、焼野原になり、空襲は地方の中都市に及んできた。会議直前のころには、本土に対する艦砲射撃まで始まった。

……

軍部は、本土決戦を叫んでいた。米軍も圧倒的な海軍力で本土を徹底的に猛爆撃してから、11月に九州上陸、ついで関東平野に上陸する計画である。勿論軍部には勝算はない。本土で、国民が皆殺しになる日が刻一刻近づいていた。それがどんな事なのか、こわすぎて、だれも想像しようともしない。

もっとも、政府が全く手をこまねいて日本の死を待っていたわけではなかった。こともあろうに、対日参戦を早くから決めていたソ連を利用して局面打開を図ろうとしていた。初めは交戦中の独ソを和解させ、ソ連を日独側に引き込み、米英側に当たらせようという“雄大な”構想だった

 敗戦必至になると、ソ連にたのんで、無条件降伏でない形で終戦しようと考えた。それには大幅な自由裁量権を持つ特使をモスクワに派遣し、ソ連首脳と交渉に当たらせることとなった。特使には近衛文麿侯爵が選ばれた。

 ソ連に近衛特使を受け入れさせよ、という極秘の至急電が外務省からモスクワの佐藤尚武大使のもとに飛んだ。日本降伏約1か月前の712日だった。



 これはいったいどういう事なのでしょうか!?
連軍を極東に転身させはじめた。日本もそれを探知した」、「4月になると、不吉にもソ連は中立条約を破棄するといってきた。が、後1年は有効である。日本としてはソ連が戦争を仕掛けるというような“いやな予測”はしたくない」と言うのですから、どなたでもあきれ果ててしまいます。
全く自分たちだけに都合のよいようにしか考える事の出来ない方々には、情勢分析など出来ず、ただお天道様はいつも自分たちに降り注いでくれる、神風がいつの日か自分たちを助けてくれる程度の気持ちで、それぞれの戦況に対処していたとしか思えません。
(勿論、今もそう変わっていないのかもしれません)



佐藤大使は13日、モロトフ外相に面会を求めたが、モロトフは旅行の準備で忙しくて会えないという。

モロトフは何処へ旅行するのか。ポツダムへである。ドイツ降伏とともに、三国首脳は、首脳会談シリーズの締めくくりとして、四度会談する事を迫られていた。議題は戦後のヨーロッパ処理である。場所はベルリン郊外のポツダム。

スターリンとモロトフは14日、日本に返事をしないまま、モスクワを出発した。米英首脳も会談地に向かっている。

こうして日本の申し入れはポツダムまでソ連首脳を追っかけてゆく。“日本処分”の舞台は各国の首都や極東の戦場からここに移った。ポツダム会談は717日から82日まで開かれ、ヨーロッパ問題がテーマだったが、日本が第2テーマとして絶えず浮かび上がってきたのは当然であった。

日本は外国のどこもが占領していない手つかずの処女領土だった。

トルーマン(筆者注:ルーズベルトが1945412日に急死しトルーマンは米国大統領に昇格)はスターリンに、彼がヨーロッパでやっているような強引な“国盗り”を極東でさせたくない。

 しかしスターリンは全力をあげて極東に兵を送っていた。日本の哀れな訴えは大国の思惑の渦のなかで、嵐の中の小舟のように翻弄される。

会期中、トルーマンはスターリンに対する見せしめとして使えそうな新兵器をついに手にいれた。原子爆弾である。ここで著者のいう“残酷な話”が起こる。トルーマンとしては原爆の威力をスターリンに見せるまでは、日本を降伏させたくない……。

これがポツダム会談である。会談でだれが何を語り、どう動き、いかに小国の運命をもてあそんだかは本文を読んでいただきたい。仮借なく自国の国益を追求するスターリンの台詞は、それが公式記録に基づいているだけに本書中の圧巻である。

 

この本はトルーマンとスターリンの縄張り争いのドラマでもある。争いはポツダム後にいっそう激化した。極東ではそれがのちの朝鮮戦争として、隣りの半島で火を噴いたが、宣言受諾当時から、日本をめぐっても始まっていた。極端な表現をすれば、それは日本をアメリカの“51番目”(当時では49番目)の州にするか、ソ連の“17番目”の共和国にするかの戦いでもあったろうか。

日本は結局、そのどちらにもならなかったが、どちらかになる危険はあったし、今後もないわけではない。

……

この本が時代の大立者であった3首脳の興味津々たるドラマを見せるだけでなく、“国際政治音痴”とでもいうべきわれわれの目を開かせ、運命のポツダムを例として、国際政治の冷酷無残さを認識させるのにいくらかでも役立てば幸いである。……

 

 

以上の「まえがき」部から、本文の一部を次に引用させて頂きます。

(但し、次の分も、送って頂いたコピーが途中からの記述なので、その旨ご了承下さい)

 

 

 極東でも、日本をめぐり、米ソ首脳は衝突しはじめていた。

 四五年八月十一日、アメリカが日本のポツダム宣言受諾に対し「天皇および日本政府は連合国最高司令官に服属するものとする」との回答を送ったとき、モスクワではモロトフとハリマン米大使の間で、この最高司令官をだれにするかでもめた。アメリカ側はマッカーサー元帥に決めていたが、モロトフはソ連極東軍総司令官のワシリエフ元帥の名前を持ち出した。そして日本を占領する連合国総司令宮はワシリエフとマッカーサーの二人制″ ではどうかとたずねたこれは日本占領について、米ソ合同の最高司令部を設置し、ソ連側がアメリカに対し拒否権を持つことを意味する。

ハリマンはこの最高にあつかましい提案を一蹴した。アメリカは日本と四年間も戦ってきたのに、ソ連はまだ二日間しか戦っていない。マッカーサーで不服なのか──と。モロトフは折れた。

 ハリマンはこのあとバーンズ国務長官に打電し、「ソ連はさらに日本に自国の占領地域を持ち、ソ連の軍司令官の下に置きたいと要求してくるでしょう。断固、拒否してください」と警告した。

 ソ連はすでに占領地域を要求していた。天皇が終戦の詔勅を放送した翌月の八月十六月、スターリンはトルーマンに送った電報のなかで、千島占領の通告のあとで、ソ連に北海道の半分を占領させよと要求したのである。

「ソ連占領地域の境界線は、東は釧路市から西は留萌市を結ぶ線である。両市ともソ連が占領すべき北半分に含められる」

 ソ連はなぜ北海道占領を要求するのか。スターリンは電報のなかでそれは四分の一世紀前の日本のシベリア出兵に対する報復だ、と次のように説明した。

「北海道占領はソ連の世論にとって特別の意味を持つ。周知のように、日本は一九一九年から一二年にかけ、ソ連の極東全域を占領した。ソ連が日本本土にいくらかの占領地域を持たなければ、わが国の世論は激昂するだろう」

 北海道占領の名目として彼が、シベリア出兵をあげたのは驚くに当たらない。九月三日、日本がミズーリ号上で降伏文書に調印した翌日、彼は、『プラウダ』紙上で、ソ連の対日参戦は帝政ロシアが日露戦争で喫した敗北の報復だ、という布告を発表するのである。

スターリンは同じ布告のなかで、日本が極東でいかにロシア人の南下の障害になったかを縷々と説明した。日本の敗北でいまやその障害は除かれた。ところが新しい障害がうまれたようであった。それはトルーマンである。スターリンが北海道占領の要求を“ささやかなもの”と表現したのに、トルーマンはヤルタ協定に従い、千島占領は認めたものの、北海道占領の“ささやかな要求”はニベもなくハネつけたからである。

「日本本土の北海道、本州、四国、九州はすべてマッカーサー将軍に降伏させるのが私の意図であり、そのように取り計らわれている」

それどころかトルーマンは、同じ電報の中で、ソ連が占領する千島列島のド真中にアメリカの航空基地をよこせ、と反対要求を突き付けた。……

 

 

 何と、「ソ連の対日参戦は帝政ロシアが日露戦争で喫した敗北の報復だ、という布告を発表」と言うのですから、負けた恨みはいつまでも続くようです。
その上「八月十六月、スターリンはトルーマンに送った電報のなかで、千島占領の通告のあとで、ソ連に北海道の半分を占領させよと要求し」、「日本を占領する連合国総司令宮はワシリエフとマッカーサーの二人制″ ではどうかとたずねた」と言うのですから!
このソ連側の後者の若しでに対しては、アメリカ側は「アメリカは日本と四年間も戦ってきたのに、ソ連はまだ二日間しか戦っていない」との理由で一蹴したとの事ですが、若しにほんが「本土決選!」、「1億玉砕!」等の旗印を掲げ、戦争が長期化していたら、ソ連の実績が拡大し、北海道はソ連の手に落ちていたかもしれません。

そのソ連に対米英への同盟を提案したり、仲裁を頼んだりとしていたのです。

何も、このような思いを抱くのはロシア人だけではないのかもしれません。

何しろ、日本国内でも薩長に対する恨みを未だに持知続けている地方もあるようです。

 

 それに、戦争の被害にあった方々は、その辛い思いを拭い去ることは難しい事でしょう。

なのに、このような経緯を踏まえての先の戦争の反省もきちんと行わず、ただただ、謝罪外交を屈辱外交と非難する方々が居られるのは不思議なことです。

 

 私は、このような著作が日本史の教科書になれば良いとさえ思います。

 

以上で、和佐氏から頂いた資料の紹介を一旦終えて、次の拙文≪操り人形と化した菅直人氏(2≫に移らせて頂こうと存じます。

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