角栄、小沢、CIA(2)
(角栄氏の石油、ウラン獲得外交)
2010年2月10日
宇佐美 保
本拙文も前の拙文《角栄、小沢、CIA(1)》同様、『田中角栄 封じられた資源戦略(山岡淳一郎著 草思社 2009.11.2発行)』を引用させて頂き、書き続けたく存じます。
先ずは、次のように引用させて頂きます。
とかく田中角栄は、日本列島改造論の印象が強く「内政の人」と見られがちだが、総理に就任すると「外交」へ軸足を移した。政治生命をかけて「日中国交正常化」の難事業に当たった。田中は、断絶した日中関係を正常に戻し、戦争状態を終わらせなければ日本の将来は危うい、アジアの緊張緩和と経済圏の確立には日中の関係修復が必須だと考えた。軍事、経済両面での対米依存に危機感を抱いていた。 しかし、中国、米国とも、田中が「自主外交」に走りだそうとすると、強烈な牽制球を返してきた。…… |
この角栄氏の「日中国交正常化」に関しては、次の拙文に取り上げさせて頂くとしまして、一先ず資源外交に関して話しを絞ります。
田中は「モノと生活」の根幹を支えるエネルギー資源と向き合った。当人にすれば、住宅開発から資源外交への道行きは合理的なコースであっただろう。だが、資源を押さえる国際資本は、軍事力を背景に世界地図を天空から見下ろして切り分ける猛禽の視点が支配していた。 石油は、十九世紀から二十世紀にかけてメジャーの序列が確立され、出遅れた日本はその下請けでじわじわと争奪戦に食い込むしかなかった。角栄は、石油の供給ル−トの多角化を断行した。多角化とは、要するに「自らの資源は、自らの手に」と民族主義で台東する産油国とパイプをつなぐことだった。中東に使者を送り、北海とアラスカ、東南アジアの石油をスワップし、シベリアのチュメニ油田を獲得しょうとした。インドネシアに新しい石油の供給パイプを通そうとする。 ……産油国にとって「石油は武器」に変わった。……石油をめぐって緊張が高まった。 |
このような状況で、角栄氏の戦略を「石油メジャー」は黙ってはいないでしょうが、それでも奮闘されました。
……日本の資源獲得手法は、商社やブローカーが情報をつかみ、先乗りして話の筋をつけて、官僚に上げ、官僚が下から積み上げて政府の承認を得て、ゴーというパターンだった。 こうした積み上げ方式は、時間がかかり、タイミングを逸するケースがある。そもそもビジネスレベルに転がっているのは「勝負がついた話」が多く、大筋が決まっている。エネルギー資源は、単なる経済商品ではなく、政治や軍事がからむ戦略商品だ。国際資本を擁する先進国や資源産出国の権力の「奥の院」で、あいまいな状況で大胆な決定が行われる。源流に手を突っ込まなければ成算は薄い。 角栄は、常々言っていた。 「平和外交を旗印に、資源の先鞭はおれがつける。相手の理解を得て、折れるところは折れて、あとは民間が実行すればいい。首脳どうしで決めれば、ほかが横槍を入れてきても、変えようがないからな。資源は戦略商品だ。トップダウンでなきや動かせないよ」 現代の中国が、この考え方を踏襲している。胡錦藩主席は、政府の指導層に工科大学出身者をずらりと並べ、国営企業を受け皿に世界の資源を手当たり次第獲らせている。 田中を囲む資源派は、「エネルギー供給源の多角化」で全員一致していた。言い方を変えれば、メジャー支配からの自立である。…… |
そこで、角栄氏は石油戦略の第一歩を「北海油田への開発参加」で踏み出しました。
狙いは一点、北海油田への開発参加である。スワップ方式で第三国を介して原油を融通する方式を英国側は内諾していた。清玄は英国外務省の要人と交渉を重ねた。九分九厘、問題なし。交渉については、秘密厳守だ。あくまでも英国側の自主的な発議で門戸は開かれ、日本は恭しく参画する手はずが整った。一見まどろっこしいようだが、それが原理原則を嘉する英国流の民主主義であった。 ところが……いよいよ議会で議案を通して、詳細を発表するという、その日の朝、英国外務省の要人が、顔面蒼白で一行が泊まるホテルに駆け込んできた。これを見ろ、と「フィナンシャル・タイムズ」が差し出された。一面トップに「不可解な事件」とデカデカと見出しが躍っている。 「議会の承認なしに北海油田の割譲を日本に約束し、ノース・スロープ油田とのスワップの権利を日本に与えた経緯は極めて不明朗だ。日本側が記者を集めて発表した」 新聞にここまで書きたてられては、英国側は議会に案を提出できない。一転して、手詰まりに陥った。それにしても、なぜ、あれだけ極秘を誓い合ったのにスワップ方式が洩れたのか。田中清玄は自伝に書いている。 「……俺は、これは今里広記(元日本精工社長)だなとピンときた。今里も同行していたから、『おい、貴様だな。おしゃべりめ。貴様がこういう事をやるとは思っておった。お前、日本を立つ間際にしゃべったんだろう』 と言ってやったんだ。土光さんも中山も言えないんだよね。俺が言った。今里は『俺じゃねえ』と言ったな。 それから俺はもう今里という人間は一切相手にしなくなつた。彼はもともと株をやっていたですからね。この話を利用してひと儲けを企んだんですよ。今と同じです。今里はその後死んだが、俺が財界そのものを信用しない理由はそれだ」(『田中清玄自伝』) …… だが、覆水盆に返らず。英国側がリップサービスで北海油田に触れることはあっても事業としては進展しなかった。清玄は、こう記している。 「英国側は議会に出せないよ、そんなもの。それでおしまい。イギリスという国は実にはっきりしている。逆立ちしたって、何百億積んでもだめ。だめなものはだめ。 日本の中には政治家はだめだけれど、財界人はいいという考えがあるけど、これは間違いです。政治家と同じです。甘さ、のぼせ上がり、目先だけの権力欲。それを脱しきらなければ、日本人は本当の意味で世界の人達から尊敬されません。日本になりきり、アジアになりきり、宇宙になりきる。そういう人がいま政界でも財界でも、求められているんじゃないでしょうか」(『田中清玄自伝』) |
このように、折角纏まりかかっていた「北海油田への開発参加」が、一人の心無い人物の為に、ご破算になってしまったことは返す返すも残念なことです。
インドネシアの石油に関しては、角栄氏は総理大臣就任前の通産大臣の時にも関わっておられましたので、インドネシアに関する記述を引用させて頂きます。
大暴動(一九七四年(昭四十九)一月)で戒厳状態の下、田中はアサハン計画、液化天然ガス(LNG)、ロンボク島の石油基地などの開発協力をまとめた。資源外交の目的は、達成されたかにみえるが、公式記録に残されていない、重大な案件があった。 それは、インドネシアの国営石油会社プルタミナから直接、欧米の石油メジャーを通さず、日本へ原油を入れる新しいルートを機能させることだった。財界資源派とともに描いた「南進」策の具体化である。…… |
本文の記述と順序が異なりますが、次を挿入させて頂きます。
……スハルトは、液化天然ガス(LNG)プラントへの援助、ロンボク島の石油基地と米作団地建設への協力を要請した。 1 田中は、石油基地と聞き、「大いに協力します」と身を乗り出した。というのは、バリ島の東隣のロンボク島に石油基地ができれば、危険なマラッカ海峡を通らず、日本へ石油を運ぶ航路が確保できるからだった。二〇万トン級タンカーがひつきりなしに航行するマラッカ海峡は、平均水深が二五メートルと極めて浅く、常に危険がつきまとう。海峡の両岸は政情も不安定だ。海賊も出没する。万一国際紛争が起きれば、石油の運搬航路が断たれる。安全なルートの開拓は、石油政策の隠れた課題だった。 田中は、「ロンボク島の石油基地、ぜひ、やりましょう」と力をこめた。 …… |
そして、先の抜粋文の続きに移ります。
従来のインドネシア原油の供給ルートは、メジャーのカルテックス一日本石抽、プルタミナーファーイースト オイル トレーディングの二本が主体だった。ファーイースト石油は、岸信介の命を受けた衆議院議員、小笠公詔が電力業界や石油業界をまとめて六五年に発足させている。岸内閣で内閣官房副長官を務めた小笠は、通産省の中小企業庁長官を経て政界人りした。岸の側近中の側近である小笠は、日本とインドネシアの合弁でファーイースト石油の設立を決めると、自ら発起人代表におさまった。 「昭和の妖怪」の異名を持つ岸は、ファーイースト石油をインドネシアからの政治資金の還流に使った、といわれる。…… この既得権者のスクラムに猛然と突っかかったのが、国士を自任する田中清玄だった。清玄はアブダビ王家やイギリスのブリティッシュ・ベトロリアム(BP)と油田開発の折衝をする一方で、スハルトと直接交渉して新しい原油供給ルートの開拓に奔走した。 |
この田中清玄氏に関する興味深い記述は中断して、次回にさせて頂きます。
……角栄は清玄と対面して、訊ねた。 「あんたはなんでそんなに熱心に石油問題をやるんだ」 「石油がなけりゃ民族の自立ができないじゃないか。あんたも知ってるだろう。食糧の自給とエネルギーの自給は民族自立の根幹だ。だから俺はこの問題は徹底的にやる」 …… 角栄が根回しをして、佐藤とスハルトは借款合意のサインを交換する。そして自民党総裁公選の前日、東京丸の内のパレスホテルで中山素平と神谷正太郎が記者会見を開き、「インドネシアに三億ドルの借款を供与する代わりに、低硫黄原油を輸入する。そのために新会社ジャパン インドネシアオイルを設立する」と発表したのである。 |
では、角栄氏に対して米国の反応はどうだったのでしょうか?
(1973年)十一月十四日、キッシンジャー国務長官は、アラブ、イスラエル、ソ連、西欧諸国を飛び回るシャトル外交の合間に来日した。キッシンジャーは、イスラエルが不利にならないよう、消費国を団結させるのに懸命だった。その動きは、翌年の石油消費国会議(現在の国際エネルギー機関、IEA)の発足へとつながる。キッシンジャーは、田中に語りかけた。 「われわれは中東紛争の解決に全力を傾けている。中東和平は進んでいる。日本も政策変更などしないで、静観していてほしい」 田中は日本の苦境を伝えて、キッシンジャーに訊ねた。 「仮に日本がアメリカと同じような姿勢を続け、禁輸措置を受けたら、アメリカは日本に石油を回してくれるのか」 「それはできない」 「事態の進むままに任せるのでは、国民の理解は得られない。何も手をうたなければ、日本が窒息死するのを黙認するようなものだ。なんらかの形でアラブの大義に共感を表す必要がある。日本は独自の外交方針をとるしかない」 田中とキッシンジャーの会談は物別れに終わった。 |
このような優れた見解を有して居られた角栄氏を私達日本人は何故バックアップしなかったのでしょうか?
角栄氏の石油外交は、今回はここまでとさせて頂き、「ウラン外交」に移させて頂きます。
「遠心分離法によるウラン濃縮」は、米国の「核の傘」の下に置かれた日本にとって、最もデリケートな問題のひとつだった。米国は、マンハッタン計画で造られたオークリッジ工場を筆頭に「ガス拡散法」でウランを濃縮していた。ガス拡散法の工場は、ばかでかい規模と途方もない電力を必要とした。オークリッジの敷地は二〇〇万平方フィート(約五⊥ハ万坪)に及び、ガス拡散法の濃縮工場は、年間にニューヨーク市とほぼ同じ量の電力を消費していたのである。 かたや西ドイツが英国、オランダと研究していた「遠心分離法」は、施設を小さくでき、電力消費量がガス拡散法の五パーセントにおさまる画期的なものだった。遠心分離法を思いついたのは第二次大戦中のドイツ原爆開発チームであった。 米国は慌てた。遠心分離法が広まれば、早く安価に濃縮でき、原爆がつくれる。冗談ではない。ウラン濃縮と原子炉による支配体制が崩壊してしまう。米国は、西ドイツに遠心分離法のすべての作業を機密扱いにするよう圧力をかけた。やむなく西ドイツは遠心分離法を政府管轄下におく。しかし、黙って忍従したわけではなかった。極秘に英国、オランダと交渉し、ロンドンに三国共同の遠心分離法の研究開発会社「ウレンコ」を設立したのだった。 遠心分離法が普及するのは時間の問題となったが、日本がそれに飛びつくわけにはいかない。米国の核の傘は、ずっしりと覆いかぶさっている。 そのうえ、やっかいなことにフランスのジロー長官が、ウレンコに対抗し、ガス拡散法の共同研究グループの結成を全ヨーロッパに呼びかけていた。ジロー長官は欧州の主導権をドイツに取られては元も子もなくなる、とガス拡散法を選んだのである。この選択は後々フランスの重石になっていくのだが、呼びかけにスペイン、イタリア、ベルギーが応じて共同会社「ユーロディフ」がつくられる。 日本は、フランスと共同歩調をとり、ゆくゆくは核燃料サイクル技術で手を結びたい。この時点では、西ドイツが推す遠心分離法は乗れない話だった(遠心分離法は、その後、しだいに広まり、現在では米国、フランス以外のドイツ、イギリス、オランダ、ロシア、中国、日本、パキスタンなどが取り入れている)。 |
このように「ウラン資源」に関しては、角栄氏の資源外交開始の前に、米国(ガス拡散法)と、西ドイツ、英国、オランダ(遠心分離法の研究開発会社「ウレンコ」を設立)等、フランス、スペイン、イタリア、ベルギー(共同会社「ユーロディフ」)の対立も芽生えていたのです。
更に、一九七二年(昭四十七)二月 仏原子力庁にて仏、加、南アとリオ・ティントで「秘密クラブ」ウラン・カルテル結成への予備会議が開かれる、と次のようです。
七二年二月の第一週、ジロー長官(仏:原子力庁長官)の補佐役が、パリのフエデラシオン通りの豪壮な原子力庁本部にアメリカ以外のウラン生産国の代表を招いた。集まったのは、フランス、カナダ、南アフリカとリオ・ティント・ジンクだ。リオ社は、米国を除いた全世界のウラン埋蔵量の五分の一を支配していたので、主権国並みの扱いだったのである。ロスチャイルド家の格″が想像できよう。 この予備会議で「秘密クラブ」を結成し、ウラン価格を引き上げる策が話しあわれた。……五月に南アのヨハネスブルグで第一回の頂上会議が開かれ、オーストラリア勢とガルフも秘密クラブに加わった。当事者は「五カ国クラブ」と呼んだが、参加したのは、リオ・ティント・ジンク、リオ・アルゴム(カナダ)、デニソン(カナダ)、ウエスタン・マイニング(豪州)、ウラネックス(フランス)、南アフリカ核燃料公社(ナフコール、南ア)などで、国境を外して眺めれば、ロスチャイルド系の企業が過半を占めていた。 …… 秘密クラブは、ウラン価格を引き上げるためにさまざまなカルテルを結んでいく。エリゼ宮の大統領官邸のまわりでは、どすぐろい欲望の調べが奏でられていた。 |
このような「ウランをめぐる世界状況」の中、ウラン資源国に角栄氏は飛び獲得交渉に奮闘したのです。
(1973年9月)翌二十七日、田中は、ポンピド一大続領の忠実な代理人といわれるピエール・メスメル首相と対面した。…… 田中は、メスメルの提案を正面から受けとめ、大胆に話をまとめていった。 ウラン資源の確保については、松根が座長になって始まったニジェールでの共同探鉱をレベルアップして、開発に結びつけることで意気投合した。 石油では、中東での日仏の共同開発が決まる。メスメルは、輸送面で海運協定を結ぼうと呼びかけてきた。田中は事務レベルの協議開始で応じた。話はとんとん拍子で進んだ。が、ここまではいわばウォーミングアップだった。本題はウラン濃縮への勧誘である。メスメルは、スペインやイタリア、ベルギーと始めたガス拡散法の共同開発への参加をしつこく求めてきた。 さすがの田中もウラン濃縮への直接参加はためらった。 「ご提案はありがたいが、七月の日米首脳会談で、ウラン濃縮の第四工場を日米合弁でやろうと確認したところです。日米には同盟関係もあり、すぐには応じられない」 「それなら、われわれの工場で加工する濃縮ウランを購入していただけませんか」。メスメルは、懸命に濃縮ウランを売り込んできた。ベルギーやスペインとの濃縮プロジェクトの成否が、この売り込みにかかっていた。 資源外交の山場が、いきなりやってきた。田中は熟考した。跳ぶべきか、踏みとどまるべきか。核開発につながるウラン濃縮は完全に米国に任せてきた。米国は、日本の核武装を防ぎながら原子力の元栓を握っている。日本を「核の傘」の下に入れ、他国からの核攻撃を抑止するという道義のもとに原子力利用もコントロールしていた。日米の信頼関係を築くには、こうするしかなかった。 しかしこのままでいいのか。田中は脳内のコンピューターをフル稼動させた。政敵との関係、世論の風向き、国内の電力事情、反核・反原発運動の高まり……。 |
ここで、「週刊鉄学」の番組中の山岡氏の発言を掲げさせて頂きます。
日本では、「戦争目的では、核兵器」、「平和目的では原子力」と用語が分かれていますが、米国ではどちらも「nuclear」です……平和利用と言いながらも、米国の当時の原子力委員会の要職にいた人たちは、殆どが軍人……核兵器と開発し、戦後世界に(平和利用)技術として開放しつつ、原子力政策という産業部門で米国は世界的に以下に入って行くか…… |
1974年9月12日 米大陸横断の資源外交に出発します。
……ブラジルの地下資源は、早い段階で米系多国籍企業が分割したのだった。ブラジルが米国の「裏庭」と呼ばれる所以である。 民族主義の抵抗で閉ざされた資源を、クーデタ一による政権転覆で開かせ、米系企業が一気になだれこむ。このパターンは、どこかと似ていないだろうか。そう、インドネシアにそっくりだ。ブラジルでクーデターが起きたのは六四年、インドネシアで「九・三〇事件」が勃発してスハルトが政権を掌握する一年前のことだ。この時期、米国は一種の覇権主義で途上国の資源を制圧している。 …… 田中角栄の標的は、アマゾン開発であった。熱帯雨林がはてしなく広がるアマゾンには米国が先鞭をつけたとはいえ、未知の鉱物資源が大量に埋もれている。 …… そのアマゾン開発には、もうひとつ秘めた狙いがあった。 ウラン鉱の開発である。ブラジルにウランが眠っているのは確定的だった。具体的なプロジェクトはこれからだが、田中は会談でウラン資源の共同開発に触れた。ブラジルは、ちょうど西ドイツとKWUの動力炉八基を含む四〇億ドルの原子力開発をまとめようとしていた。イシブラスを設立した土光は、原子炉メーカー東芝の経営者に転じており、人的なつながりもある。将来を考えれば、日本との原子力事業での提携は渡りに船ともいえた。 日本は、アマゾンでウランを手当てできれば、従来の供給ルートのほかにもう一本、太い供給経路をつくれる。エネルギー安全保障上、ブラジルを第三の極にできる公算が大きかった。 田中はアマゾン開発の好感触をつかんだ。…… |
カナダでは、……
田中とトルドーは、アルバータ州のタール・サンド開発に日本が資本と技術の両面で積極的にかかわることで意見が一致した。ウラン鉱についても話し合った。 |
この角栄氏に対して、年表では次のようです。
(1974年)十月十日「文芸春秋」十一月号が「田中金脈」を掲載する。 二十二日 外国人記者クラブで「金脈問題」の質問攻めにあう。 |
それでも、二十八日 田中首相、大洋州歴訪の資源外交へ旅たつのでした。
……そしてオーストラリアのキャンベラに移動し、ホイットラム首相と対面した。…… キャンベラの首相官邸で首脳会談が始まった。…… 田中は、「日本は豪州におけるウラン濃縮を原則として好ましいと考えるものであり、豪州と協力してその可能性を研究する」と語った。はっきりとウラン濃縮事業への参画を口にしている。角栄は、政権の剣が峰に立って、もう一度「米国の核の傘」の外へと跳んだ。必敗を覚悟の決死のダイビングだった。 |
この角栄氏は、1974年11月26日“政局の混迷を招いた”として辞意を表明されたのです。
「混迷を招いたのは角栄氏でしたか?」どうも違うように思えてくるのです。
私達は混迷の渦の中で踊らされ、混迷を更に煽っていたのではないでしょうか?
次の件も引用させて頂き、後は、次なる拙文《角栄、小沢、CIA(3)》に移らせて頂きます。
角栄は、回想録で語っている。 「世界の核燃料体制は、やはり、アメリカが支配しているんだな。わたしはそのアメリカを逆なでして、何かをやりたいわけじゃない。しかし、石油のスワップをやったときのように、ウランについても必然的に供給の多様化を考えたわけだ。ヨーロッパ訪問でポンピド一大統領に会ったときに、日本がガス拡散方式を採用したいと申し入れた。遠心分離方式と併用でいこうと考えたわけだよ。むろん、ポンピド一大統領は、喜んで応じた。フランスのためになるんだからな。しかし、アメリカが喜ばず、反撥した。アメリカの核燃料支配に頼ってきた日本への姿勢が厳しくなったわけだ。まァ、それは仕方ないことだけど……。(中略)しかし、あんなにアメリカがキヤンキヤンいうとは思わなかったなあ。 わたしとしては一生懸命になって話をまとめようとしたし、フランスも日本と一緒にやろうということで、前向きになっていた。そこを後ろからいきなりドーンとやられたようなものだ。しかし、それもまた、しようがない」 角栄は、じつにあっけらかんとアメリカの「横ヤリ」を告白する。 「わたしの資源外交に対して、アメリカのメジャーからいろんな横ヤリがあるだろうとはわかっていたが、それはしょうがない。こっちは初志貫徹だ。わたしだっていつまでも総理大臣の職にあるわけじゃないし、殺されないうちに逃げればいいんだと思っていた。短兵急だったかなと──は思ったけど、構わず、やったわけだ」 |
角栄氏の悲しい物語は次の拙文《角栄、小沢、CIA(3)(角栄氏と中国そして立花隆氏)》に続けさせて頂きます。
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