国家の品格について(2)
2006年1月16日
宇佐美
先の拙文《国家の品格について(1)》に続いて、『国家の品格:藤原正彦著』(新潮新書)から、先ず次のように引用させて頂きます。
資本主義の論理を追求していった果てに、資本主義自身が潰れかねないような状況に、だんだんなってきているのです。それに付随する形で、物質主義、金銭至上主義が世界中を覆い尽くしている。 もう一度言っておきましょう。「論理を徹底すれば問題が解決出来る」という考え方は誤りです。論理を徹底したことが、今日のさまざまな破綻を生んでしまったとも言えるのです。なぜなら「論理」それ自体に内在する問題があり、これは永久に乗り越えられないからです。 なぜ論理を徹底しても人間社会の問題は解決できないのか。 |
そして、藤原氏は、その原因として次の4つを上げます。
1 論理の限界 まず第一は、人間の論理や理性には限界があるということです。すなわち、論理を通してみても、それが本質をついているかどうか判定できないということです。・・・ 2 最も重要なことは論理で説明できない 論理だけでは破綻する第二の理由は、人間にとって最も重要なことの多くが、論理的に説明できないということです。 もし、人間にとって最も重要なことが、すべて論理で説明できるならば、論理だけを教えていれば事足りそうです。ところがそうではない。論理的には説明出来ないけれども、非常に重要なことというのが山ほどあります。 3 論理には出発点が必要 論理が破綻する三番目の理由は、「論理には出発点が必要」ということです。 論理というものを単純化して考えてみます。まずAがあって、AならばB、ならばC、CならばD……という形で、最終的に「Z」という結論にたどり着く。出発点がAで結論がZ。そして「Aならば」という場合の「ならば」が論理です。・・・このAは、論理的帰結ではなく常に仮説なのです。そして、この仮説を選ぶのは論理ではなく、主にそれを選ぶ人の情緒なのです。宗教的情緒をも含めた広い意味の情緒です。 4 論理は長くなりえない 論理だけでは破綻する四番目の理由は、「論理は長くなりえない」ということです。 数学の場合、「AならばB」と言った時には、「完全に正しい」か「完全にウソ」の二種類しかないからです。・・・「確率1で正しい」と言います。まったく嘘の場合は、「確率0で正しい」。 ・・・ ところが、数学の証明において使われる論理というのは、各ステップとも全部「1」です。AからBも1、BからCも1、CからDも1。ここで大切なのは、AからZまでの論理系としての信憑性は、各ステップでの確率を全部かけ合わせたものにより計られるということです。 そうすると、数学の場合は各ステップが全部1ですから、百万回かけてもその積は1のままです。・・・論理はいくらでも長くなり得る。 ところが一般の世の中の論理には、1と0は存在しません。絶対的に正しいことは存在しないし、絶対的な間違いも存在しない。真っ黒も真っ白も存在しない。・・・ 「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺がありますが、・・・ 数学的に考えてみるとどうでしょうか。風が吹くと埃が舞い上がる。これが九〇%正しい、すなわち〇・九とする。ところがその次に、埃が目に入って目を患う確率は一〇%、すなわち〇・一くらい。その中から目が見えなくなる人となると、〇・〇〇一ぐらい。その次の三味線弾きになるとまた〇・〇〇一。各ステップを全部かけていくと、おそらく確率は一兆分の一以下になるでしょう。要するに、現実には風が吹いても桶屋は儲からない。 |
このような理由から、藤原氏は論理のみに頼る危険性を訴えています。
更に、第4の理由の「論理は長くなりえない」の中では、次のようにも書かれております。
論理は、長く進めて初めて深みに達するという性質を持っているのですが、先ほど申しましたように、日常の論理は長いと危険で、とても使い物になりません。 一方、短い論理というのは深みに達しない。従って、論理というものは本来、効用のほとんどないものです。なのに人間は論理が大好きで、論理は世にはびこっています。 ほぼすべてワンステップかツーステップの論理です。 |
この記述は、小泉首相の“自衛隊のいると所は、非戦闘区域”等々の「ワンフレーズ・ポリテック」のいい加減さを糾弾されているように私は感じますが、藤原氏は、氏の品格が邪魔をするのでしょうか、アカラサマな小泉批判はされないようです。
1月8日のテレビ朝日放映の「サンデープロジェクト」に於いて(以前も拙文《口はご立派、心は疑問の安倍晋三氏(1)》にも、記述しましたが、テレビ朝日放映『サンデープロジェクト(7月31日)』 “異色対談 安倍晋三VS志位和夫” にて同じ発言をされていました)、安倍晋三内閣官房長官は、次のように発言していました。
(先の戦争を)どう評価するかということについては、政治家が云々することは、外交的政治的意味を持つのであまり賢明ではない。 その件は後世の歴史家に任せたい。 それはかって、大平総理が靖国神社(昭和54年)を参拝された際におっしゃったことであって、それが賢明なのだと私は思います。 |
この安倍発言(論理)の正当性は、この論理の出発点である「大平発言」の正当性にかかっていますが、神でもなんでもない大平氏の発言が、何故論理の出発点になれるのでしょうか!?
藤原氏が否定してきた、自由平等民主主義よりも格段に信憑性が欠けていませんか?
戦後、60年も経って未だに、“その判断は後世の歴史家に託すべき”では、あきれ果てます。
それに、 “政治家が云々することは、外交的政治的意味を持つ”との事ですが、小泉氏は“心の問題”を口にします。
私も、先ず“心の問題”として安倍氏に問いたいと存じます。
しかし、このようにぐずぐずと煮え切らない態度を取り続ける安倍氏とは異なり、藤原氏は、日中戦争に関しては、実に明快に次のように断罪しています。
日中戦争は別です。策士スターリンと毛沢東に誘い込まれたとはいえ、当時の中国に侵略していくというのは、まったく無意味な「弱い者いじめ」でした。武士道精神に照らし合わせれば、これはもっとも恥ずかしい、卑怯なことです。江戸時代は遠くなり、明治も終わり、武士道精神は衰えていました。 挑発に乗って当時の中国に攻め込めば、負ける筈はない。そもそも中国には空軍さえほとんどないのですから。制空権を握った日本がまず空から爆弾を落として、その後陸軍を送り込めば、何回戦争をやったって日本が勝つに決まっています。・・・無意味で恥ずべき関東軍の暴走でした。だから天皇、政府、陸軍のすべてが深入りすることに反対したのです。 このような弱い者いじめをしたというのは、日本の歴史の汚点です。・・・戦後は崖から転げ落ちるように、武士道精神はなくなってしまいました。・・・ |
従って、安倍氏には「武士道精神」の一欠片もないのだと思います。
(日米戦争に関しては、後の章にて記述いたします。)
更に、「論理的思考力はばっちり」の藤原氏は、「あまり頭が良くない」私に次の点を明らかにしてくれています。
最悪は「情緒力がなく論理的な人」 一番困るのは、情緒に欠けて、論理的思考力はばっちり、というタイプの人です。・・・ あまり頭が良くない人なら、途中で論理が二転、三転して、最後には正しい結論に戻ったりもしますが、下手に頭が良いとそのまま行ってしまう。頭はよいのに出発点Aを選ぶ情緒力の育っていない人というのが、非常に怖いのです。現実には、こういう人が非常に多い。 このような情緒力とか、あるいは形というものを身体に刷り込んでいない人が駆使する論理は、ほとんど常に自己正当化に過ぎません。世の中に流布する論理のほとんどが、私には自己正当化に見えて仕方ありません。 |
藤原氏は、論理の出発点として、「大平発言」をした安倍氏をどう評価されるのでしょうか?!
この藤原氏のご指摘から、我が身を振り返りますと、論理を一番うまく駆使できるのは、「言い訳する時」です。
そして、私は、「言い訳」は「いいわけない!」と、認識しつつ、論理論理を振りかざし、恍惚として、言い訳に勤しむのです。
ですから、藤原氏は次のように続けます。
論理とか合理に頼りすぎてきたことが、現代世界の当面する苦境の真の原因と思うのです。 ・・・ それではどうしたら良いのでしょうか。一つの解決策として私が提示したいのは、日本人が古来から持つ「情緒」、あるいは伝統に由来する「形」、こうしたものを見直していこう、ということです。 論理とか合理を否定してはなりません。これはもちろん重要です。これまで申しましたのは、「それだけでは人間はやっていけない」ということです。何かを付加しなければならない。その付加すべきもの、論理の出発点を正しく選ぶために必要なもの、それが日本人の持つ美しい情緒や形である。それが私の意見です。 論理とか合理を「剛」とするならば、情緒とか形は「柔」です。硬い構造と柔らかい構造を相携えて、はじめて人間の総合判断力は十全なものとなる、と思うのです。 |
そして、次のような日本人の美点を掲げております。
1
自然に対する感受性 2
庭師、茶道、華道、書道 3
無常観、もののあわれ 4
日本人に特有な感性(虫の音、桜の花、紅葉、四季、俳句) 5
「懐かしさ」という情緒 6
四つの愛(この「懐かしさ」という情緒が基本となり「家族愛」を出発点として「郷土愛」「祖国愛」そして、これらが順次しっかり固まった後に「人類愛」 など |
そして、藤原氏は“美的感受性や日本的情緒を育むとともに、人間には一定の精神の形が必要であって、こうした情緒を育む精神の形として「武士道精神」を復活すべき”と次のように続けておられます。
武士道は鎌倉時代以降、多くの日本人の行動基準、道徳基準として機能してきました。 この中には慈愛、誠実、忍耐、正義、勇気、惻隠などが盛り込まれています。惻隠とは他人の不幸への敏感さです。 それに加えて「名誉」と「恥」の意識もあります。名誉は命よりも重い。実に立派な考え方です。この武士道精神が、長年、日本の道徳の中核を成してきました。 |
更には、藤原氏は、父親から「武士道精神(卑怯を憎む)を叩き込んで頂いたそうです。
(「卑怯はいけない」には理由も説明も不要!いけないものはいけない!)
そして、次のように記述されています。
私は「卑怯を憎む心」をきちんと育てないといけないと思っています。法律のどこを見たって 「卑怯なことはいけない」なんて書いてありません。だからこそ重要なのです。 「卑怯を憎む心」を育むには、武士道精神に則った儒教的な家族の粁も復活させないといけない。これがあったお陰で、日本人の子供たちは万引きをしなかった。 ある国の子供たちは、「万引きをしないのはそれが法律違反だから」と言います。こういうのを最低の国家の最低の子供たちと言います。「法律違反だから万引きしない」などと言う子供は、誰も見ていなければ万引きします。法律で罰せられませんから。大人になってから、法律に禁止されていないことなら何でもするようになる。・・・ |
この藤原氏の見解に私は大賛成です。
私とて、日頃から「卑怯な振る舞いだけはしまい!」と心がけています。
ですから、次の点が、とても不思議に思えるのです。(前にも書いた事ですが)
経済大国が、財力に任せて武力を整備して、その武力を背景に外交交渉をするというのは、卑怯ではありませんか?!
このように理路整然と論理以外に武士道などの必要性を説く、藤原正彦氏の著作『国家の品格』を、福田和也氏は、週刊新潮(2005年12月22日号)のコラム「闘う時評」にて、次のような記述しつつ(無批判に)紹介しています。
西洋の論理、合理性を批判した議論は、日本においても、また西洋自身のうちにあっても、古来たくさんなされてきましたが、本書のきわだつた特徴は、著者は、ケンブリッジで教授もつとめた、当代一流の数学者、つまりは論理の達人であることです。日々、論理の場で闘い続けている人であるからこその、論理の限界にたいする認識が、単刀直入に語られているのです。 |
私は、この福田氏の肩書きにて、著作の内容を判断する態度には賛成できません。
(この福田氏の態度は、或る意味日本人の典型なのでしょう。)
そして、私には、藤原氏の論理の破綻(そして、見解の相違)が気にかかるのです。
これらの件に関しては、次の拙文《国家の品格について(3)》にて書かせて頂きたいと存じます。