「日没する処の天子」とは?
2003年8月9日
宇佐美 保
《隋書》に記述されている、“日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云云”に於いて、聖徳太子は、日本を“朝日の如くに光り輝く国”、中国(随)を“落日斜陽の国”と表現したと日本人は思い込んでいますが、果たしてそうでしょうか?
特に、雑誌《諸君!2003年8号》で“日本国核武装への決断”の題目に於いて、自らを「言論人」と嘯いて愚論(この愚論に対して拙文《ちんけなチェンチェイ中川輝政京大教授》に私なりの反論を書きました)を展開する京大教授中西輝政氏は、次のようにも発言しています。
……我々日本人はいまこそ歴史を思い出すべきなのである。この国はかつて一度として、中国のアジアにおける優越を受け入れたことはなかった。聖徳太子が隋に向けた国書を「日出る処の天子……」と書き起こして以来、日本は中国と対等に接することをもって国是としてきた…… |
本当に、聖徳太子は(随の皇帝に対して)傲慢な態度を取られたのでしょうか?
私は疑問を感じるのです。
(以下は、平凡社の百科事典を参照しながら論を進めます。)
何故なら、聖徳太子は、既に、慧慈(595年(推古3)に来日した高句麗の学問僧)より仏教を学んでいるのです。
そして、太子がご自身で著した《三経義疏》に於ける仏教思想の神髄は,大乗菩醍行の実践であったのです。
更には、太子は遣隋使派遣の前年の“606年(推古14)に《勝鬘経》と《法華経》を講じた”と《日本書紀》に書かれているのです。
ですから、隋書に於ける、この問題の件の直前に書かれている文言を中西氏達は、ご覧になった事があるのか?との疑問を抱くのです。
岩波文庫の《魏志倭人伝他三編(編訳者:石原道博)》から「訳注『隋書』倭国伝」の一部を(注意書き共々)抜粋させて頂きます。
大業三年(注:1)その王多利思比孤、使(注:2)を遣わして朝貢す。使者いわく、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と。 その国書にいわく、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云云」と。 帝、これを覧て悦ばず、鴻臚卿(注:3)にいっていわく、「蛮夷の書、無礼なる者あり、復た以て聞するなかれ」と。 (注:1)隋煬帝の年号、推古天皇十五年(六〇七)。 (注:2)遣隋使小野妹子をさす。 (注:3)四夷に関する事務、朝貢来時のことをつかさどる官。今の外相のごときもの。 |
此処で注目して欲しいのは“海西の菩薩天子”の文言です。
この“海西の菩薩天子”の文言から、時代は下って平安時代の西方浄土への憧れを想い起こすのです。
聖徳太子の時代に既に「西方浄土」思想があったかは私には不明です。
しかし、太子が建立し、又、太子亡き後、消失し再建された法隆寺の金堂の壁画(これ又、1949年焼損)には、阿弥陀浄土図が描かれているのです。
従って、太子は、落日の中、金色に輝く菩薩の世界、阿弥陀如来の浄土と、随(中国)を重ね合わせ、随の皇帝を“海西の菩薩天子”と崇め、太子自らを朝日が昇って間もない“現世で修行中の声聞”と謙った表現をされたのではないでしょうか?
そして、その慈悲深き“海西の菩薩天子”のもとへ小野妹子を遣わし朝貢し、仏法の教えを学ぼうとされたのではないでしょうか?
しかしこのような西方浄土思想を別としましても、「東方の阿醗仏の浄土に対して,西方の阿弥陀仏の浄土としての極楽」との「西と東の言葉の上での対比的な表現」だったかもしれませんが、“和をもって尊し”と説かれる太子が、これから教えを請う相手側へ「日没衰退に向かう国の天子」等との表現をされるとは私にはとても思えないのです。
(追記:2003年9月23日)
本分を書いた時点では、先ず、随の都は「洛陽」ではないかと思いました。
ところが、百科事典(平凡社)には、随に関して「都邑は現在の湖北省随県とみる説が有力」と書かれていましたので、これから書こうとした文はボツにしておりました。
ところが、日本国語大辞典(小学館)には「随・唐代には西の長安に対して東都として栄えた」と、又、新撰漢和辞典(三省堂)には「後漢・西晉・後魏・隋(煬帝)五代等もここに都した」とありました。
そこで、この追記を書く事と致しました。
そして、日本国語大辞典で「明日」を調べますと、「アサ(朝)の転で、明くるアサを言い慣れて略転した語」との記述がありました。
従いまして、聖徳太子は「朝日の昇る」(少なくも「日の明るい」)明日香におはして、隋の煬帝は、「日の落ちる(落陽)」洛陽に都している。
この点から聖徳太子は「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に……」との書面を認めたのではないかと私は考えるのです。