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小池百合子氏と付和雷同(1

201794日 宇佐美 保

 

 東京新聞(201791 夕刊)には次の記事を見ます。

 

  一九二三年の関東大震災から九十四年となる一日、震災時に起きた朝鮮人虐殺の犠牲者を追悼する式が、東京都墨田区の都立横網(よこあみ)町公園で営まれた。追悼文の送付を今年からやめるとの小池百合子都知事の判断は変わらず、長年続いてきた知事追悼文の代読が途絶えた。参列者らは「虐殺の歴史にあえて目を背けているように思える」と知事の対応を批判した。……

 

 更には、産経ニュースには以下の記述を見ます。

 

 

 東京都の小池百合子知事が、市民団体で構成される実行委員会主催の関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文送付を断ったことについて、小池氏は25日の定例会見で、「大震災に関連した形で亡くなった方々は国籍を問わず多かった」と指摘。その上で、「3、9月の(都慰霊協会主催の)慰霊大法要で、すべての方々への慰霊を行いたいという意味から、特別な形での追悼文の提出は控えさせていただいた」と経緯を説明した。

 

 この様な小池氏の言動は、東京新聞の記事に見る“参列者らは「虐殺の歴史にあえて目を背けているように思える」と知事の対応を批判した”そのものです。

少なくとも「神奈川新聞」のニュースサイト「カナロコ」に於ける「朝鮮人虐殺 大川署長の精神はいま 歴史の暗部を照らす存在

をお訪ねになってはいかがでしょうか!?

 

フリー百科事典ウィキペディアでは大川常吉氏を、次のように紹介しております。

 192391日の関東大震災当時、大川常吉警部は、総勢30名の鶴見分署で分署長を務めていた(当時の鶴見署は神奈川警察署の分署であり、神奈川警察署の署長は木下淳一警視)。92日夕方の鶴見分署にて、大川分署長と署員一同が屋外に陣取っていると、自警団が4人の男を連れてきた。自警団の話では、その4人は井戸に毒を入れたのだという。

 

それは92日の正午(または夕方)頃のことであった。4人の男は鶴見駅近郊の豊岡にあった井戸から水を飲み、彼らの1人はビンを2本持っていた。それを自警団が目撃し、その4人は朝鮮人で井戸にビンの毒を入れたと騒ぎ立て、4人を殺せと囲んで小突きながら署まで連行したのである。直ちに取り調べが行われ、大川は4人が東京に避難するところであり、彼らは悪者ではない、ビンの中身は毒薬ではないと自警団に説明した。勢いづいていた自警団は納得せず、ならばと大川は、自分が飲んで見せようと言い、2本のビンの中身を飲んだ。取り調べで分かったことであるが、4人は中国人で、ビンは1本がビール、もう1本が中国の醤油である。2本のビンの液体を飲む大川を見た自警団は引き上げたが、流言蜚語は増すばかりであり、民衆は警戒を強めた。続々と朝鮮人と疑われる者たちが警察へ連行されてきた……朝鮮人は署内に収容できないほど連行されてきた。大川は警察に駆け込んだ朝鮮人たちや、自警団に連行された朝鮮人たちを總持寺に移動させることにした。93日になると事態はますます悪化した。

 

自警団は武器を持って總持寺に集まり、朝鮮人の引き渡しを要求した。地元有力者の間からは朝鮮人を鶴見から追放してもらいたいという要求もあった。大川は朝鮮人が殺害されるおそれありと判断し、署員に指示を出し、朝鮮人らを總持寺から鶴見分署に移動させることにした。追放を拒むことは危険であると思い、大川は署に移動させてから遠くへ送り出すと言っておき、人々を一旦落ち着かせた。

 

署に移動したものの、自警団らの群衆が朝鮮人を殺せと叫んで署を囲み、大川は朝鮮人が悪いということはないと説得するが、群衆は朝鮮人に味方する警察を叩き潰せと騒ぎ立てた。地元有力者たちは追放を迫った。鶴見分署は1000人以上の群衆に囲まれた。その時、署員総勢30名の鶴見分署には署員が3名くらいしかいなかったようである。大川は群衆の前に立ちはだかり、次のように大声で言った。

 

「鮮人に手を下すなら下してみよ、憚りながら大川常吉が引き受ける、この大川から先きに片付けた上にしろ、われわれ署員の腕の続く限りは、一人だって君たちの手に渡さないぞ」

 

これには群衆も驚き、しばらくすると代表者数名が話し合い、大川に問うた。警察が管理できずに朝鮮人が逃げた場合、どう責任をとるのか。大川は、その場合は切腹して詫びると答えた。そこまで言うならと、とうとう群衆は去って行った。こうして朝鮮人220名、中国人70名およそ300名が大川分署長はじめ30名の鶴見分署員により守られた。……

 

 小池氏はこの様な大川氏の勇気ある行動にも目を向けないのでしょうか!?

小池氏は「情報公開」を宣言されておりますが、この様に誰でも簡単に見ることが出来る「情報」を軽視して、ご本人が目を向けないのでは、「情報公開」の意味はどこにあるのでしょうか?

(それで、豊洲移転云々の情報が出て来ないのでしょうか!?)

 

 更には、私達は、簡単に付和雷同してしまうことをお忘れでしょうか?

学校などで発生する「いじめ」も、いじめる側は一人でというより複数でしょう。

その複数は、付和雷同しているのではありませんか!?

小池氏は、それに、小池氏の言動を支持なさる方々も「自分はそんなことはない!」と云い切れますか?

何しろ、小池氏が都知事選で勝利したのも、都知事選で、小池氏が旗振りをした「都民ファースト」が圧勝したのも「付和雷同」のお蔭ではありませんか!?

(小池氏の政策、政治信条等を理解し、把握し投票された方がどれほど居られたというのでしょうか!?)

 

 第2次大戦時、日本の少年(一部の方を除いて)は、皆「軍国少年」でした。

ジャーナリストの田原総一朗氏も常々「私も軍国少年だった」と云っておられます。

 

 ですから、田原氏も、生まれる前の一九二三年の関東大震災のその場に居合わせたら、周りの大人たちに付和雷同して、虐殺に加担していたとも考えられます。

(南京虐殺、慰安婦問題……然りでしょうが?)

そこで、この様な発言を田原氏がされておられるかを、インターネットで検索しましたが見当たりませんでした。

 

 昔、我が家にベートーヴェンの「田園交響曲」更には、歌舞伎の勧進帳のレコード(SPレコード)がありましたが、私は、敗戦後でも、それらよりも飛行機のラベルが貼ってある「軍国行進曲」とかいうレコードや、“青葉茂れる桜井の……”とかの歌詞が流れ出る「楠正成」のレコードを好んで聞いていました。

ですから、この様な「付和雷同型」の私は、戦時中小学校に入学していて、軍国教育を受けていたら真っ先に「軍国少年」になっていたでしょうし、また、虐殺の後ろで、棒を振り回していたかもしれません。

(私の兄は一寸違っていました、小学校で優等生であった兄は、戦地に向かう学校の先生への送辞(別の先生が書かれた原稿)を読まされていました。

でも、代筆されるような先生も戦地に送られてしまうと兄は、“武運長久、天皇陛下に命を捧げ……”を排除して、“先生が無事帰国されることを願っております”調の兄が日頃からの思いを込めた送辞を読み上げました。

その結果、こいつの親の教育が悪いのだろうということで、父は特高に長いこと監視されていたそうです)

 

 ところが、その私の父親たちは、敗戦後も、中国人を「チャンコロ」、朝鮮人を「セン(鮮)公」、ロシア人を「ロスケ」、イタリア人を「イタ公」等と平気で口にしていたのですから!

 

そして、驚くべきことに「さようなら!福沢諭吉」(安川寿乃輔、雁屋哲、杉田聡共著 花伝社発行)の53頁には次の記述を見ます。

 

 朝鮮・中国への蔑視

 話が前後しますが、壬午軍乱が起こった結果、朝鮮は経済的に厳しくなった。経済的に困窮する朝鮮が、日本にお金を貸してくれというんだけれども、どこへ行っても貸してくれない。とうとう朝鮮の使節がアメリカに金を借りに行こうとした。

 福沢諭吉は子どもが九人いるのですが、そのうちの長男、次男、それから甥まで、男は皆アメリカに留学させている。留学中の子どもに書いた手紙の中でこう書いています(この中で、乞食、とか被差別部落の人間を表す「穣多」という言葉が使われていますが、福沢諭吉が書いたことなので、そのまま記します。)

 

 「朝鮮から米国への派遣使節がいよいよ明日横浜から出発するそうだ。

 ある新聞によると、使節は朝鮮を出る時に米国への案内人としてチャイニーズを一名同伴して日本へ来たが、識者によれば、米国に行く使節がチャイニーズ同伴とは、あたかも乞食が穣多を連れて行くようなもので、米人は朝鮮使節を優待しょうとしても、案内人の臭気を嫌って、そのために使節も、二、三割も損をするのは確かだ、という。 …… 

(全集一七巻 五七一ページ)

こういう風に福沢諭吉は、朝鮮・中国を馬鹿にして書いている。

 

 この様な福沢諭吉の東洋人蔑視が数多く紹介されておりますが、あまり酷いので今回は割愛させ得て頂きますが、インターネット「IWJ」の“「奴隷の群衆」「牛馬豚犬」…”元祖ヘイトスピーカー”としての福沢諭吉を徹底検証〜岩上安身による名古屋大学名誉教授・安川寿之輔氏インタビュー 2014.9.3”に、次の記述を見ます。

 

 

  安川氏によれば、福沢は朝鮮を「半開国」と位置づけ、「文明国」である日本により、武力を用いて侵略されて当然である、と考えていたのだという。この点において福沢は、現在の「ヘイトスピーチ」にも相通じるような、朝鮮を蔑視する記述を数多く残している。

 

 「朝鮮…小野蛮国にして…彼より来朝して我属国と為るも之を悦ぶに足らず」「朝鮮人は未開の民…極めて頑愚…凶暴…」「朝鮮人…頑迷倨傲…無気力無定形」「朝鮮人…上流は腐儒の巣窟、下流は奴隷の群衆」「朝鮮人…人民は正しく牛馬豚犬」…

 

 安川氏によれば、福沢は日清戦争を「文明と野蛮の戦争」と位置づけていたのだという。西洋中心の「文明と野蛮」の構図をそのまま持ち込み、「野蛮」である朝鮮は、「文明」の側に位置する日本により、侵略されてしかるべき、という理屈である。

 

この様な見解を撒き散らしていた福沢諭吉を、我が国は1万円札に掲げ称えているのです。

 

 

 こんな福沢諭吉説が流布している背景があっては、多くの方々(付和雷同する方々、勿論私も含めてですが)は、隣国の方々を蔑視し、その挙句虐殺に走ったり、虐殺の尻馬に乗ってもしまうでしょう。

 

 何故、”私も軍国少年だった”と発言される田原総一朗氏は、下種の私同様な見解を発しないのでしょうか!?

 

今も語り継がれている事態を真摯に受け止め、反省しないことには、田原氏にしても、私にしても進歩はないはずです。

 

そして、無くなった方々の無念さを思えば、小池氏のように“大震災に関連した形で亡くなった方々は国籍を問わず多かった」……慰霊大法要で、すべての方々への慰霊を行いたい

では、反省も謝罪もなければ、また、私達は過ちを繰り返すでしょうし、犠牲になられた方々の無念さは、いつまでも消えることはないでしょう。
私はお気の毒で堪りません。

 

それにしても、隣国蔑視の方々は、付和雷同したことも、することはないのでしょうか!?

その上、米国人の日本人へ対する仕打ちをどうお考えなのでしょうか?

 

 

2次大戦時にアメリカに居住されて居られた日本人は、ジャップと蔑まれ、

 “米国西海岸にいた約10万人の日系市民とその子供達は連邦政府によって日本人収容所に拘束された。食料や消費財の不足によって生活が困難になり、1944年までに不自由な物資を求めて闇市が広く存在した。”

と「フリー百科事典ウィキペディア」には記述されております。

 

 更には、米国は、東京大空襲を初めとし、日本中を空爆し、挙句の果ては、広島、長崎に原爆を落としました。

 

 なのに、今、中国、韓国、朝鮮を蔑む方々は、何故アメリカに抗議の声をあげずに、米国の核の傘の下にいれば安心ということで、日米安保を後生大事に抱え込み、世界の果てまで、自衛隊を派遣しようとなさるのでしょうか!?

 

 恐ろしいことに、元自衛隊員の佐藤正久・外務副大臣は次のように発言しているのです。

(朝日新聞デジタル2 0178152112分)

 

  北朝鮮から日本の上空を飛び越えてグアムの方へ(ミサイルが)行く。そういう時、日本の自衛隊は本当に撃ち落とさなくていいのか。日米同盟の真価が問われている。リスクを共有しない同盟はない。もしも(北朝鮮からのミサイルが)日本の上空を飛び越え、(日本が)撃ち落とせるのに撃ち落とさず、グアムに被害が出たら、日米同盟はどうなると思うか。皆さんの商売でも、自分が本当に苦しい時に親友と思った人間が背を向けたら、もはや親友とは言えないかもしれない。まさに今、同盟国・日本の覚悟が問われている。

 

 佐藤氏は米国をどのような国とお考えなのでしょうか!?

 

一寸長くなりましたので、以下は次の拙文《小池百合子氏と付和雷同(2)》に続けさせて頂きます。

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