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理解に苦しむオペラ「トゥーランドット」

2017212

宇佐美 保

 

 偉大なるオペラ作曲家プッチーニによるオペラ「トゥーランドット」のテノールのアリア“誰も寝てはならない”をバックに、上体を後ろにそらしながら滑るエナバウアーを取り入れ、荒川静香さんは、トリノの冬季オリンピックのフィギア・スケートで、金メダルを獲得しました。

 

 更には、その開幕式で、3大テノールの一人であったパバロッティは、この“誰も寝てはならない”を歌い上げていたのです。

 

 しかし、そのオペラ(詳細は、フリー百科事典ウィキペディア:「トゥーランドット」をご参照下さい)は、流浪の異国の王子カラフに心を寄せる召使のリューが、カラフの命を守る為に、カラフと、彼が心を寄せる中国の姫(氷の心を有し、カラフを頑なに拒む)トゥーランドットの前で、自ら命を絶つ場面までプッチーニは作曲した後、なかなか筆が進まないうちに、プッチーニは、「トゥーランドット」を完成することなく世を去ってしまわれました。

 

 何しろ、そのオペラの進行は、カラフの為に命を投げ捨てたリューの死の後にトゥーランドット姫が愛の力に目覚め、カラフと愛の賛歌を歌い上げハッピーエンドとして幕となるのです。

このような筋立てを作曲するのは、女性への愛をオペラ化し続けて来たプッチーニとしたら、とても困難であったろうと、常々、私は思っておりました。

(何しろ、カラフは、自分に思いを寄せていたリューの死を(さして)悼むこともなく、トゥーランドット姫に対する愛の結実に走るのですから!)

 

 ところが、音楽専門チャンネルであるケーブルTV「クラシカ・ジャパン」には、次の様な案内がなされておりました。

 

 ……プッチーニは第3幕「リューの死」の場面まで作曲し死去。現在は作曲家の弟子フランコ・アルファーノによる補完版が上演されますが、この番組ではシャイーがイタリアの現代作曲家ルチアーノ・ベリオに補作を委嘱した全曲版をご覧いただきます

アルファーノ版では主人公2人がリューの犠牲を忘れたかのように情熱的に結ばれますがベリオ版はリューの犠牲を目の当たりにしたトゥーランドットの心が少しずつ変化する様子を丁寧に描きます。もちろん作曲家のスケッチを元にしているのでアルファーノ版と同じ旋律も響きますが、華美にはならず、ラストはプッチーニが遺したピアノ譜通りのピアニッシモで静かに幕を閉じるのです。どちらを好むかは評価が分かれるところ。必見です。

そのベリオ版の特徴に合わせて登場人物の心理描写を丁寧に描く演出はニコラス・レーンホフ。彼とコンビを組むことが多いライムント・バウアーの舞台装置も見どころ。流麗なカメラワークによって、テレビで見てもスカラ座の舞台の高さや奥行きに圧倒されます。……

 

 ですから、大いに期待してその放送を見ました。

(舞台とか、衣装は最近の傾向として(私は好きになれない)時代考証を全く無視した、現代仕立てでした)

 

 ところが、トンデモナイ演出でした。

舞台中央に置き去りにされたリューの死体を挟んで、カラフはトゥーランドットに愛の接近を図り、二人は結ばれ、リューの死体を置き去りにして舞台の奥へと消えて行くのです。

 

 こてでは、従来通りの「カラフとトゥーランドットが、リューの犠牲を忘れたかのように情熱的に結ばれるアルファーノ版の方が納得できます。

 

 何しろ、オペラ「トゥーランドット」は、リューの死を以って(仮想的な)幕が下り、リューの死後の舞台は、オペラ「トゥーランドット」のカーテンコールと思うと納得するのです。

即ち、従来のアルファーノ版では、盛大な拍手を受けつつアンコール的に、カラフはトゥーランドットが愛の賛歌を歌っていると、私の頭は解釈して、そのアンコール的な舞台を楽しむことが出来るのです。

 

 今回見た「イタリアの現代作曲家ルチアーノ・ベリオに補作を委嘱した全曲版」というより、「演出家ニコラス・レーンホフ」の演出が、音楽専門チャンネルであるケーブルTV「クラシカ・ジャパン」の案内書に書き記された“ベリオ版の特徴に合わせて登場人物の心理描写を丁寧に描く”とは全く異なり、ニコラス・レーンホフの独善的な演出だったのかもしれません。

 

 従って、他の演出家による「ベリオ版」のオペラ「トゥーランドット」を見たい気持ちもなくはありません。

 
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